湖と吸血鬼


 白銀色に覆われた世界。そこに鮮血と雪影色(アルカーディア)を落とす。ただひたすらに前へ、前へと脚をもつれさせながら進んでいる。どこへ向かっているのかも知らずに。否、この先にあるものは知っていた。

 魔女の住む場所、極夜の森。いかなるときでも闇が佇む黒き禁忌の地。立ち入った者は魔女に食べられるだとか、怪物に襲われるだとか。ともかく、立ち入ったら二度と出てこれないという話が独り歩きしている場所だ。でもそれは間違っている。少なくとも、「わたし」は戻ってきたのだから。

 

 「――!!」

 

 わたしを探す声が聞こえる。わたしを殺せと叫ぶ声が聞こえる。

 この足元に続く鮮やかな色はもう見つかっているに違いない。捕まってしまう前に、火で、銀で、太い杭で殺される前に、森に入ってしまわなければいけない。無力なこの体では、わたしを殺しにくる男の人たちに抵抗できっこないから。

 

 もしわたしが本当に彼らの言うような吸血鬼であったなら、立ち向かって見せたのに。今この時だけはただの人間である自分の体が憎らしかった。喉が渇いて仕方がなくて、水がなかったから代わりに血を啜った。それだけだったのに。わたしは正真正銘、人間だ。

 傷んだ髪を振り乱して走る。絶えず流れ出る命の雫は頭の中に霞をかける。本当の目的地である暗い森の奥、絶えない夜に浮かぶ光が集まる湖を目指して。

 

前にここに踏み入った時、怪物に襲われたわたしを助けてくれた人がいた。どうしてここに人がいるのだろうと思ったけれど、死にかねないほどの傷を癒した綺麗な少女はきっと天使か何かなのだろうと思うことにした。

わたしがわざわざ森に逃げ込んだのは、今回も天使が助けてくれると思ったからかもしれない。それほどまでに、あの奇跡とも言える出来事をはっきりと覚えていた。火が灯っていない不思議な夜色のランタン、雪影色をした髪、底の見えない湖色の瞳。

 今の状況をひっくり返して、かつての平穏をまた再び。

 

 

 

 「彼女」のはっきりとした記憶はここまでだ。吸血鬼狩りに熱を上げた男たちに捕まることはなかったものの、以前森で出会った少女に再会することはなく、光漂う湖まで到達し、そして水面に身体が放り出された。

 

冷たい水が彼女の体を包む。傷口から溢れ出るおびただしい血液は、彼女がここまで意識を保って辿り着いたことが奇跡の産物であることを如実に示していた。

 音がくぐもる空間で、仄暗い手のような影が伸びて体に触れる。巻きつくように撫ぜてくるそれに悪意はなく、それが彼女を知りたがっているということだけは感じられた。

 彼女の体験、彼女の願い、そして最後に、名前を聞かれた気がした。

 

「わたしの名前は……ルーシャ」

 

 虚実を装飾された彼女は、そのまま湖の底に姿を消した。

 

 

 

 

 彼が目を覚ますと、頭がふわふわとしていると同時にどこか重苦しさを感じた。水に浮かぶ身体を岸に上げて、ずぶ濡れになった体を地面に横たえる。なんだか全てが曖昧だ。

 どれくらいそうしていただろうか、雪を踏み抜く音が二つ。いつの間にか目を閉じていたのでよくわからないが、影が差した。

 

「ほら、私の言った通りだろう。きっとこの前の子だ」

「……――」

「そんなこと言わない。あの子のことはどうしようもなかったんだから」

 

 聞き取れたのは喜色に弾んだ少女の声だけだ。それはどこかで聞いたことがある気がしたが、自分としての記憶が全くないことに気が付いた。自分は何なのか、見当もつかない。

 

「うーん、起きてはいるね? 聞こえてるかな、目を開けてごらん」

 

 渋々と瞼を上げる。すると、ディープブルーとかち合った。淡い碧が顔にかかる。

 やはり、彼女を見たことがあるはずだと思った。

 

「初めまして、私はラズニャル・エイス・フォートリエ。キミの姉にして極夜の魔女の一番弟子だ」

 

黒い森雪影色の軌跡深い蒼鮮やかな赤色

フラッシュバックする誰かの記憶。唐突に喉が渇く感覚に襲われる。

 

「キミの名前は、ルシアン。そうだろう?」

 

 姉を名乗る不審者は心底嬉しそうだ。ニコニコとした笑顔に嘘偽りはない。

 それから、渇く感覚と心地よい夜の気配が頭の中で繋がった。

 

 

 「俺」は、吸血鬼だった。

 

 

 

* * * * *

 

 

 

「なーんてこともあったようだね?」

「他人事か」

「他人事だよ」

 

 夜闇が街を覆う。ルーシャという少女が過ごした街で、一番高い建物の屋根に腰を下ろしている。そうやって星空と街並みを眺めるのは、彼女の姿を映した吸血鬼と周りの闇に溶け込む男。両者とも、少し冷めた目で人間たち見下ろしている。

 

「別に、その人のことを覚えてるわけじゃないからどうでもいいんだけど」

「いいのか」

 

言外に復讐ではないと語る弟の思考が理解できない男は懐疑のこもった赤い眼を向けた。そんなのおかまいなしといった風に吸血鬼は立ち上がる。

 

「ラズから断片的に聞いただけだからね。元から人間は嫌いだし。リージュもそうでしょ?」

「……ルーイ」

 

 纏っている外套のフードを外した男――リージュは、無表情の中にわずかな呆れを含んでそっと息を吐いた。これから彼らがやろうとしていることは、人々にどう映るのだろうか。

 そもそも、生き残った人間がいなければそれを知る機会はないのだが。

 

「これはただの好奇心」

「魔女に叱られるぞ」

「今更」

 

 

 

 その日、白い街は赤色で汚された。