くるくる、赤い液体が卵型のガラスに沿って回転する。誰もいない酒場でそれをただ眺めるのは楽しいと思うが、無意味な時間だ。もっとも、自身の存在自体が生産性の全くないものだとルーイは考えている。
何かを作り出すことに喜びを、意味を見出す人間。姿こそヒトに近くとも、根幹から決定的に違う吸血鬼。かつて少年を生かしたのは、人ならざる者でありながらどこまでもヒトに近かった友人達の影響があったのかもしれない。
「毒されましたかねえ」
いつもの彼とは違った、自嘲の笑みをこぼす。その姿をかの青年に見られていたら、何をいまさらと呆れられていただろう。
「へえ、あなたが?」
「!……驚かさないでくださいよ」
夜は吸血鬼の時間だという同族の言葉には大いに同意する。そんな時間に、気を抜いていたとはいえルーイに気配を悟らせず近づいてくるとは。寝間着なのだろうか、明け方の空を彷彿とさせる色の浴衣を着たシヅルが何の遠慮もなくルーイの隣に座った。
彼女は渋い色の持ち手がないカップ(湯呑み、というらしい)を手に、ルーイに微笑みかける。そのワインをわけてほしい、と目が訴えていた。
「どうしたんですか、こんな時間に」
「目が覚めたの。ルーイちゃんこそ、ちゃんと寝るのよ」
私の故郷には「寝る子は育つ」っていう言葉があるんだから。そう言う彼女は、彼女たちはルーイが吸血鬼であることを知らない。それは隠すべき真実であるから、知られていないことは喜ぶべきことだ。
きっと彼女の目には、夜更かしをして大人ぶる少年に映っているに違いない。相手が知らないこと、自分だけが知っていること。それを実感する度に優越感が湧き上がってくるのを感じる。
ああ、彼女をどう裏切ってやろうか!いくつもの案が浮かび上がるが、全て棄却した。まだその時ではない。彼女の連れ、アイリにはまだまだ警戒されているはずだ。
「最近、エステルが少し変わった気がしない?」
「戦闘中の無茶が減ったかもしれませんね。むやみにこちらの射程に入らないのはいい心がけです」
無理に仲間を庇ったから負った傷。エステルは何も思っていたかったようだが、少なくともシヅルは彼女が傷つく機会が減ってほっとしている。どうしようもないときならばありがたい献身も、反撃する心づもりでいるところに割って入られるのは心臓に悪すぎた。
「無口なのは元からみたいだけど、心を開いてくれないというか。実力を認めれてくれてないのかしらって思ってたのよね」
「俺はアルトゥールがそれに怒らなかったことに驚きましたよ。「なめてるのか、侮るな」くらいは言うと思っていましたから」
きょとんとするシヅルの顔を見てついふきだした。そういえば、彼は彼女の前では怒りを露わにしたことがまだなかったかもしれない。彼女は母のような雰囲気を持っているから。
「そういえば、アイリとフィロメナも仲良くなったわ。こっちが寂しいくらい」
二人で楽しく絵を描いているのかと思ったら、紙に書かれていたのは小難しい魔術理論。魔法、魔術に詳しくないシヅルには到底理解できるものではなかった。
「はあ……よくわかりませんが、仲がいいことはいいことなのでは?パーティーを組んでて仲が悪いのは考え物だと思いますが」
ルーイは乙女心がわからない。シヅルの脳内にしっかりと刻まれた。まだ大っぴらに恋人だとは言っていないものの、雰囲気で察することができるくらいにはスキンシップ過多だという自覚はある。ちょっとした嫉妬心というやつだ。
そういう彼こそ、アルトゥールを見る目はちょっと怪しいと思う。彼の心中に燃えるような恋慕はなく、凪ぐ水面のような慈しむ情もない。しかし泥土の如き執着心はある。勘はよくないが、なんとなくこれは当たっている気がした。
彼らの本質はシヅルの目に見えるところにはない。厚い氷の下、あるいは光の差さない森の奥に隠されていると思った。この二人のことだから、そこに辿り着くまでには門番やら怪物を飼っているのだろう。そこまで踏み込むことは全く考えていないが。
だってシヅルが心の奥底まで踏み入りたいとまで思うのはたった一人、アイリだけだから。
「エステルとアルトゥールちゃんは折り合いが悪く見えるけれど」
「あれはエステルで遊んでるだけだと思いますよ。彼女の経緯と行動を見て癇に障る部分があったのでしょう」
「ルーイちゃんあなた、随分と大人びたことを言うのね」
暖かな紫の暖炉の火がこちらを覗いている。柔らかい光のはずなのに、氷の下に隠した真実すら照らしてしまいそうなほど鋭い。少し顔を背け、瞼を閉じる。透ける氷には雪を敷いて目隠しをしてしまおう。炙られ溶けた雪も、再び固まれば氷を厚くする。
「大人ぶりたい年頃なんです。言わせないでください」
「あら、そう?ごめんなさいね」
くすくすと笑う彼女はまた眠気がやってきたらしく、席を立った。そこまで強くはないが、アルコールが効いたのかもしれない。
「おやすみなさい、シヅル」
まだあなたの仲間でいるので安心してください、と心の中で投げかける。それが伝わるはずなどなく、残されたのは最初と同じ。ルーイと静寂、グラスに注がれた少しのワイン。