死神の足音:Lui & Arthur


 世の中には、善人と悪人の二種類が存在する――そんなことを言う人間がいた。人々は善なる心を持つべきであり、悪を働く者は等しく裁かれるべきである、とも。

 

「そう言った人間は、今頃どうしていると思いますか?」

 

 黒いコートを着た茶髪の少年は、そう男に尋ねた。

 薄暗い部屋だった。窓がなく、壁につるされたランタンの灯だけがこの部屋の照明だ。そこまで広くない部屋の中で目を引くのは、氷でできた二体の人型の彫像。氷の中には大きな何かが封入されているが、それが何かまでは男にはわからなかった。

 少年は男の回答を待っている。しかし、男にはそれよりも重要なことがあった。

 

「わかりませんか?あ、それともあれが気になります?」

 

 少年が視線をやったのは、氷の彫像。男が気にしている、それだ。

 男は困惑していた。まず、ここは男が所属する暗殺ギルドのホームだ。仕事を探しに来た男は、ここで少年と鉢合わせた。

 暗殺ギルドに少年がいることはさして珍しいことではない。スラム街育ちの貧しい子どもが金欲しさに暗殺に手を染めるなどよくあることだ。しかし、この暗殺ギルドのメンバーを一通り知っている男でも、茶髪の少年には会ったことがなかった。

 そして、いくらホームが地下にあるとはいえ、夏場のこの時期に氷の彫像など誰が持ち込むのか。ギルド長は変人だが、こんなものをホームに持ち込むなんてよくは思わないはずだ。それに、この部屋は異様に、寒い。

 男の沈黙を無言の肯定と受け取ったのか、少年は笑みを深めた。

 

「契約違反はいけないと思いませんか。それと、ここのギルド長と依頼人にはちょっと実験台になってもらったんです。いい感じに仕上がったと思うんですよね」

 

 イカレた魔術師。男は咄嗟に袖口に隠していたナイフを少年の喉笛に突き刺した。確実に仕留めた。ここならば死体の片づけに困らない。ギルド長は残念だが後任はあの人だろう、と事後を考える余裕すらあった。

 しかし、死んだはずの少年の体が傾ぐことはない。それどころか、ナイフを握る男の手が痛いほどに冷たく、指が動かせなくなっていく。

 仮にまだ死んでいないにしても、喉を潰したのになぜ?男の思考は疑問に塗りつぶされた。凍っていく体に声が出せない男とは対照的に、殺されたはずの少年は自らの手で刺さったナイフを抜き、軽く咳き込んだ。

 

ほ、あ゛、あー……嫌ですねえ、一回死んじゃったじゃないですか」

 

 少年の喉は血にまみれているが、傷跡が見当たらない。明らかに人ではない何かと対峙している。男の体は恐怖に震え始めたが、もう何もかも遅かった。氷がぱきぱきと音を立てて体を上ってくる。既に男の前腕と脚は氷に覆われていた。

 

「ああ、最初に言ったあの人間の話。答えは」

「善人の皮を被った悪人に土の中へ叩き込まれた。純粋な善人なんているはずがない。あんなの、全て奴の理想でしかない」

 

 後ろから、別の男の声。その言葉の意味を理解した後、男は完全に氷の彫像へとなり果てた。

 ゆったりとした歩調で部屋に入ってきた男は邪魔な氷塊を押しのけ、少年の喉元に赤い色を認めると顔を顰めた。少年はあまり気にしていないらしく、笑顔を崩さない。

 

「見張りとかいなかったんですか?」

「案山子は立ってたな」

「あ、はい。わかりました」

 

 貴族の屋敷という意外な場所にあるこのギルドには、表向きの顔を示すためにそれなりの数の見張りがいた。それを案山子呼ばわりした男は少年の喉元を見つめている。威圧感すら感じる視線の強さに、少年は両手を上げて「観念しました」のポーズを取った。

 

「さっきの暗殺者、そこそこの腕はあったみたいですね。さくっと刺さっちゃいました」

「そうか。で、他に何か言うことがあるんじゃないのか」

 

 男の、若葉色の瞳が細められる。少年は表情こそ変えないものの、男の様子を静かに窺っている。二人の無言の攻防はわずか一分、男が少年に背を向けたことでよって終了した。

 早足で歩きだした男を少年が急いで追いかける。言いたくないことを答えず勝利したはずの少年にはどこか必死さがにじみ出ていた。

 

「ちょっと待ってください!俺が悪かったです、食事させてください!……アルトゥール!」

 

 名を呼ばれた男は足を止めた。振り返った彼の顔には「少年で遊べて楽しい」と書かれている。言いたくなかったその一言を言わされた少年は当然の如く不服そうな声を上げた。

 

「なんで毎回言わせるんですか。ちょっと恥ずかしいんですよ」

「血を吸われる僕の身にもなってみろ。なんで吸血鬼ってやつは蚊みたいにできないんだ」

 

 フェアじゃない、と呟いたアルトゥールの横に少年が並び、再び歩き出す。思い当たる節を探しているのか、少年は少し言葉の解釈に悩む素振りを見せて手を叩いた。

 

「なるほど!魅了魔法の効果で恥ずかしい声出しちゃうから俺にも――

「そうか、一週間断食するのか。大変だなあルーイは」

 

 アルトゥールは少年、ルーイの言葉を遮るようにわざと大きい声で断言した。まずいことをしたと悟ったルーイの顔がさっと青褪める。

 彼は吸血鬼の中でも人間が食べるような食事もできるタイプだが、血以外は味を楽しむための嗜好品にすぎない。あくまでも、自分が生きるためには血がなくてはいけないのだ。

 

「すいませんってば!明日一日、食事は俺の財布から出します。それで手を打ってください!」

……本当だな?」

「本当です!嘘なんてつきませんよぅ!」

 

 なぜ自分以外から吸血するという手段が本人の中で浮かばないのだろう、という疑問がふとアルトゥールの脳内をよぎった。だが、出会った時から得体の知れない怪しい男だったルーイのことだからと一人で納得してしまう。

 二人は暗殺者たちの棺桶となった館を後にする。彼らの進む先には、交易都市リューンへの街道があった。