正義の在処:Ester & Arthur


 小鳥の囀りに気付き瞼を上げる。見慣れた宿の部屋、同室のフィロメナは視線の先でまだ穏やかな寝息を立てていた。カーテンから漏れる光は今が朝であることを告げている。

 エステルはベッドから体を起こし、ぐっと伸びをした。背中から手の先まで、翼の先まで血が巡っていく感覚が心地いい。窓を開けようとして、やめた。昨日の依頼で疲れているフィロメナを起こすのは忍びないと思ったからだ。

 それなりの時間になると客で賑わう下階からはまだ声が聞こえない。きっと早い時間なのだろう、このぶんではまだ誰も起き出していないはず。

 カーテンの隙間から見えた空は快晴。エステルの心は晴れ晴れとしていい気分、とはならなかった。

 

 

 軽く身支度を終え、一階へ下りる。エステルの予想通り、酒場の時計は午前五時半を指していた。朝食目当ての客も見当たらない。しかし、カウンターにはエステルの予想に反して人の姿があった。

 

「アルトゥール」

 

 白金の髪、若葉色の瞳。例えるならば気高い白猫だと言ったのは泥酔した冒険者だったか。しかし彼が白猫なんて可愛らしいものではないことは周知の事実。彼は起床してそのまま下りてきたのだろうか。普段とは違うゆったりした白い服も相まって、まるでシロクマだとエステルは思った。

 

「あんたか、早いな」

 

 まだ半分寝ていそうな声を漏らしつつ、アルトゥールは手にしたマグカップの中身を煽る。ふわりと香る苦味、マグカップの中身はきっとコーヒーだったのだろう。フィロメナなら口をつけてすぐ吐き出すレベルの、苦みが濃い種類。

「親父さんなら裏だぞ。あと十分は出てこないだろうな」

 エステルが空腹に耐えかねて起き出してきたと思っているらしい。パーティーを組んでからまだそんなに経っていないが、最近は各々のわかりやすい癖のようなものが段々とわかってきた。

 

 例えば、エステルは誰かが危ない目に遭ったら自分を盾にしてでも守ること。例えば、アルトゥールは誰かが危険に遭遇したら仲間を盾にしてでもそれを排除すること。

 

「あなたは、なぜ守らないの」

 

 それが、気に入らなかった。もしもそれで誰かが怪我をしたら?怪我で済めばいい、もしも死人が出てしまったら?自分を盾にすることで救える状況で守ることを放棄することは、エステルにとっては悪と同じくらい、もしくはそれよりも許せない。

 アルトゥールには実力がある。それを知っているからもどかしい。その力を、誰かを守るために使えばいいのに。そう思ってしまう。

 気がつけば、彼は虚を突かれたような顔をしていた。エステルは無意識だったが、思いのたけが全て口から流れ出ていたのだから驚くのは当然とも言える。

 

「あんた、そんなに喋れたんだな」

 

 寝癖が直っていない彼の頭が揺れる。その表情からは面白い、珍しいものを見たという感情がありありと見て取れた。真面目な話をしているのに、茶化すなんて。エステルの眉間にしわが寄る。

 感情表現が乏しいエステルでは、どんな顔をしたところでアルトゥールに面白がられる以上の効果はないようだった。

 

「それは、一般人に対してか?僕たちに対してって言うんなら、それは僕たちへの不信と受け取っていいんだよな」

 

 仲間への不信。そんなもの、エステルの中には存在しない。彼女はただ、自分が守れる人々を守りたいだけだ。それだけを考えていた。

 腑に落ちない、といった感情を読み取ったのだろう。アルトゥールはさらに続ける。

 

「アイリはなんかあっても防御障壁を常につけてる。シヅルもな。ルーイはちょっとやそっとじゃ死なないし、僕の実力は認めてくれてるんだろ?あんたが盾になったとしても、それは無駄になる。」

 

 彼のマグカップにコーヒーが注がれる。あたりに苦い香りが充満した。今度は砂糖を入れるのか、彼はカウンター裏を探り始めた。

 エステルにはわからない。みんなを守ることこそが自分の使命で、自分の正義。そう思っていた。今までずっとフィロメナと旅をして、時に誰かと出会い、時に誰かを助けてきた。だから、ここでもそれは変わらないのだろうと思っていた。

 

「要するにあんたの守りたいっていうのは、無力な人間を守るっていうそれだ。それは、仲間に対する感情じゃないだろ……あ、砂糖見っけ。こんなとこに隠すなよ」

 

 エステルはどこか薄ら寒い恐怖心すら感じていた。自分の根底を作る要素が直接揺らされているような、そんな気分。起きたときにはアルトゥールの考え方に不満を持っていたのに、今はそんなことどこかに消え去っていた。

 

「あんたがしたいことに口を挟むつもりはない。でもな、パーティーとして一緒にいる以上は自分の役割を自覚しろ」

「役割……

「防御面なんて全部アイリに投げたっていいんだ。避ければ問題ないし」

 

 なんで僕がこんなこと言ってんだろうな。そう言ってアルトゥールは砂糖入りのコーヒーを持って階段を上っていった。一方でエステルの心は、不思議と安らいでいた。先程の不安感は波間に沈み、自分を縛るものが少し外れたような気もする。

 

「おおエステル、起きてたのか。朝食なら少し……って誰だ砂糖を勝手に持って行ったのは!」

 

 

 

 

 

 無自覚な、自己犠牲にも似た献身。もはや脅迫観念とも思える「誰かを、みんなを守る」という意志。過去を失ってもなお染みつく一種の呪い。自らを縛る枷とも言い換えられる高潔な理想。

 

「そんなもの、ただの善意だけで済むはずがない」

 

「少なくとも僕にとって、あんたの正義は間違いだ」

 

 いつか死を望んだ少年は、死にきれずにずるずると生きている。

 他人を守り生かすことで救おうとするエステルと、他人の苦痛を命ごと終わらせようとするアルトゥール。二人が理解し合う日は、おそらく来ない。