情けは人の為ならず:Francette


  フランセット・デトゥーシュはリューン中心街の路地に店を構える宝石店に住み込みで働く少女だ。十三歳という若さながらも豊富な知識を持ち、魔術にも明るい彼女は店の主人である老夫婦とそこを訪れる客に愛されていた。

 そんな彼女は今、もうすぐ日が落ちるリューンの街を一人歩いている。取引先へのお使いをすぐに済ませるつもりが、つい屋敷の主との話に夢中でこんな時間になってしまった。きっと店で待つ彼らも心配しているだろう。

 若草色の髪を揺らし帰路を急ぐ彼女の視界に、細い横道が入り込んだ。今いる場所はそこそこの屋敷が並ぶ明るい通りとはいえ、道を一本外れたらそこは何があるかわからない裏通り。普段なら絶対に、昼間でも通らないだろう道だ。

 足を止めたフランセットに、背中に迫る夜の闇が囁きかける。早く帰ろう、走って通り抜けてしまえばすぐに隣の通りに出られる。ここを通らなければ、日が落ちて真っ暗になった大通りを一人で歩かなければならないよ。それは人を惑わす悪魔のような囁きであった。

 

「すぐに抜ければ、きっと大丈夫だよね」

 

 夜は怖い。彼女の右目は人よりも若干暗さに強いとはいえ、彼女自身はか弱い少女なのだ。大人の男と対峙したとして、勝てるわけがない。

 だから、彼女はその道を走って通り抜けることにした。まだ暗くなりきっていない今ならば大丈夫。そんな根拠のない自信をもって、薄闇に誘われるように足を向けた。

 ――それが誤った選択だとは気づかないまま。

 

 

 

 走る。闇に覆われる前に。

走る。何か怪しいものと出会う前に。

 過剰に恐れてしまうのは、その幼さゆえか、彼女の右目が何かを感じ取っているのか。何もわからなかったが、とにかく早くこの裏通りを抜けるべく駆けた。

 

 この裏通りが意外に長いと気付いたのは息が切れて一度立ち止まってからだった。たしかに通りの入り口からはカーブした先の大通りは見えなかったが、彼女の脳内地図では大通りに出られるはずだったのだ。それ自体は浅慮な判断の結果としか言いようがない。

肩で息をする彼女の眼前、曲がり角の向こうにある壁が温かいランタンのような光で照らされているのが見える。まだ開いている店のものだろうそれは、恐怖を取り払う救いのように感じられた。

もうすぐ大通りだ。ぱっと表情を明るくした彼女は一歩一歩その明かりに向かっていく。

 

 しかし、最後の曲がり角を曲がろうと体を出したとき、思わぬ衝撃を受けて後ろに転んでしまった。誰かとぶつかってしまったようだ。

 恐る恐る顔を上げると、男がふらふらと不安定に体を揺らし何やらつぶやいている。つぶやきの内容は全く聞き取れないが、相手の男が正気でないのは見て取れた。

  

「あ、あの。ごめんなさい!」

  

 彼とは関わり合いにならないほうがいい。恐怖が侵食する思考でなんとか結論を導き出し、立ち上がる。そのまま通り過ぎようとした彼女の体は、悲しきかな、想像以上に強い男の腕力で阻まれた。

  

「な、なんですか……?」

 

 問いかけるも、男は答えない。フランセットを見下ろす濁った眼には何も映っていない。その異様さに息をのむが、がっちりと掴まれた腕を振りほどく力も技も持ち合わせてはいなかった。 

 さらに男は行動を起こす。掴んだままの腕を引き、彼女の体を暗い路地の壁に押し付ける。すでに、日は落ちていた。

  

「ひぃ、やめてください……」

 

 これから何をされるのだろうか?叩かれるかもしれない、殴られるかもしれない。もしかしたら、殺されてしまうかもしれない。最悪の状況を考えてしまった彼女は震えた。こんなところで死にたくない。でも、どうにもできない。

 ずっと言葉にならない呻き声を発していた男の手は、彼女の顔でも、彼女の首でもなく、胸元に当てられた。ぐっと服が掴まれ、力任せに引っ張られる。

 白いシャツのボタンが飛び、素肌が露わにされる。男は、彼女を慰めの道具にしようとしていたのだ。それに気付いたときにはもう遅すぎた。

 ぎゅっと目をつぶって(何をされるかはわからなかったが)耐えようとしたが、妙な異音とともに体が解放され呻き声も止まった。 

 何事かと目を開けると、若い男がフランセットを襲った男を地面に押し付けているのが見えた。

  

「ほんっと、あんたみたいなやつは薬に走る前に死んでくれ。不愉快極まりない」

 

 若い男はフランセットに目もくれない。仇敵を見るかのような険しい顔で男を見下ろしている。助かった。それだけははっきりとわかった彼女は地面にぺたりと座り込む。助けてくれた彼が誰であれ、たしかに彼女は救われた。 

 それによって気持ちが緩んだのか、彼女の目から涙があふれる。嗚咽を漏らし泣き出した声は男の気を引いたらしい。初めてこちらを向いた男は少し動きを止め、自分が来ていたブラウンのジャケットを投げてよこした。

 

「それは返さなくても構わない。誰かに見られる前にさっさと帰ったほうがいい」

 

 男はそう言ったが、腰が抜けていて動けない。感謝を伝えようとしても、ただ涙が邪魔をした。

 彼女が動けないと悟った男は、一つため息をついて立ち上がる。酷い目にあいそうになったことを配慮してか、気絶したらしい倒れた男を引きずって路地の闇へと消えた。 

 フランセットのそれとは少し違う、明るいベルデライトに似た瞳がきれいな男だった。

  

 彼女はしばらくその場を動けなかったが、偶然通りかかった自警団の女性によって保護された。翌日帰宅したときには、店の夫婦にはたいそう心配されて客からも慰めの言葉をかけられ、もう二度と、よっぽどのことがなければ一人で裏路地に入らないと固く誓った。

 

 

 後で聞いたことだが、彼女が襲われた路地で翌日に死体が出たのだという。それがあの正気でなかった男なのかはわからないが、特に気にしなかった。それよりも、助けてくれた恩人のほうが気になったからだ。

 

「白い髪で緑の瞳の男?……知り合いの店にいるけど、別人かもしれないよ?」

「それでもかまいません!違ったらまた探します。絶対にお礼が言いたいんです」

「わかったよ。彼はね、雛の揺り篭亭の――」