それは愛しき探しもの:Osker


「そうだ、旅に出ましょうか」

 

 突然彼女はそう言い出した。旅ならいつも似たようなのをしているだろうとか、もう夜も遅いというのにどこへ行くのかだとか。言いたいことはいくつかあったが俺は彼女がそんな理由ではそれを取り下げないことを知っていた。

 

「わかった。朝には戻れる場所にしてくれよ」

「ええ、もちろん。楽しい旅にしましょうね」

 

 少し首を傾げて慎ましやかに笑顔を浮かべる彼女はさながら小さなスターチスのようだ。

 上機嫌になった彼女に手を引かれ、宿を出る。仲間といるときは逆なのに、二人きりだといつもこうだ。彼女といるときだけは、美しい花にとまった虫の気分になる。

 夜の街は当然ながら、暗い。これが娼館が並ぶ裏通りだったなら話は別だが、ここは表の大通り。起きている人間は見当たらない。

 

「…………」

 

 前を歩く彼女が小さく歌を歌っている。共通語でないのか、歌詞はわからない。きっと彼女の歌う子守唄は魔法のような力をもつに違いないと少しだけ思った。

 大通りを抜け、門を潜り街の外へ。何も準備をしていないから今持っている武器は大ぶりのナイフ一本だけだ。彼女は武装すらしていないはず。妖魔や物盗りに会わなければいいが、と周囲を気にかけた。

 彼女の足取りは軽やかだ。しばらく歩くと潮の香りが鼻を掠める。その小さな足は、海へ向かっていた。

 

 

 街の近くにある海に砂浜はない。切り立った崖に打ち付ける波に不安を煽られる。

 彼女の「旅」はここが終着点のはずだが、一向に真意がつかめない。確かに、その行動にいつも意味があるわけではなかった。しかし突然こんな崖に連れてこられたら心配になるなというほうが難しいだろう。

 

「ここに何か用でもあったのか?」

「……いいえ、」

 

 宿を出て初めて彼女が振り返った。そこには心配していたような陰りはなく、ただ俺の知る彼女がいるだけ。誘われるがままに隣に立てば、うっとりと目を細めて地平線へ思いを馳せている彼女が再び口を開いた。

 

「私ね、ずっと海が見たかったの」

「うん?」

「知っていると思うけど、私たちは森で生まれて森で死ぬのが普通なのよ。だけど私は、何も遮るものがない空を、地平線を見てみたかった」

 

 人間とはあまり交流のない、森に愛された種族。人間の数倍もある寿命を森の中だけで過ごすのはとても勿体ないことでしょう?と問いかける彼女はどこか得意げだ。そろそろ八十になるというのに、どこか子どもっぽいところは魅力の一つだと思う。

 

「それで、森を出たのか」

「ええ!家出同然だったけれど、後悔なんてしてない。だって世界はこんなにも美しかった。それを知らないなんて損してるわ!」

「……そうか」

「微妙な顔しないの!もう……あ、そうだ。今度背中に乗せてくれない?私も飛んでみたいわ!」

「だめだ。落ちたりしたらどうする」

「あの子たちは乗せてるのに?」

「あいつらは殺しても死ななさそうだからいい。特にルーイは……」

 

 興奮気味に世界への称賛を語り、今はちょっとむくれている。星の光を映していた彼女の瞳に眩い光が差した。

 ――夜明けだ。

 

「ねえ、私次はね、海を渡ってみたいと思ってるの」

 

 * * * * *

 

 

 がくん、と足元から崩れ落ちるような感覚で我に返った。どうやら半分寝ていたようだ。昨夜から少し無理をして歩き続けたのがいけなかったのだろうか。

 ちょっと視線をずらすと見える広大な海は、どうしてか彼女を思い出させる。彼女を象徴するものといえば森のはずなのに。そういえば、なぜ海が好きなのか聞いたことはなかった。

 再会したらなんて言おうか。最近はそのことばかり考えている気がする。いや、まずあいつに声をかけないと拗ねるだろうか。我ながら不甲斐ない父親で悔しいが、きっと許してくれるはずだ。会えたら一番に二人を抱きしめよう。それがいい。

 

 地図を見ると、ここ周辺で一番大きな都市までは一週間もあれば到着できるはずだ。

 彼女と生き別れてそろそろ四十年。(もう手遅れかもしれないが)いい加減見つけないと厄介なことになりかねない。主に、非常に質の悪い悪友のほうが。

 

「あの野郎、また会ったら一回殴る」

 

 心の中でへらへら笑う悪友に何度こぶしを入れたことか。もう実物を殴らないと気が済まなくなってきそうだ。

 止めていた足をまた動かし前へ進む。人の体で山道を歩くのは大変に疲れる。かと言って元の姿に戻って飛ぶわけにもいかないのがもどかしい。

 

 どうして海が好きなのか。君に会えるまでは、そっとあの日見た海に沈めよう。

 

「次は会えるといいな、ノエル」